Vの歌を聴け

「完璧な投資などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

ちよこの帝国

昔々、大学の同じゼミに、おしゃべりが大好きな、ちよ子という女の子がいた。

ちよ子は、その古風な名前にはまるっきりそぐわないほどに垢抜けた、いや、いささか派手な女の子だった。髪はかなり明るめのブラウンで、瞳はこぼれ落ちそうなくらいに大きく、小ぶりな鼻と、常に微笑みをたたえた口元は、彼女とすれ違うほとんどの男に、好意と、「もしかしたら見下されているのではないか」という幾ばくかの不安を抱かせずにはおかなかった。彼女の目はこう語っていた。「あなたって無知ね」と。
けれども、大抵の男にとっては、その不安こそが彼女に好意を抱く原動力だった。

実際に彼女と話してみると、彼女の会話の引き出しの多さに僕は驚いた。特に、お金、経済にまつわる話が彼女は得意だった。
「バフェットは言ってるわ。究極の投資先は”自分”だってね」
「ねえ知ってる?アメリカのIT企業のTOP5社だけで、日本の株式会社の時価総額の半分を上回るのよ。投資するならアメリカ企業の他にはないわ」

彼女は、男たちに不安を掻き立てつつも、その「おしゃべり」でもって男たちの願望を満たしていた。あるいは、抱くべき願望そのものを示す「道しるべ」となっていたのだ。

僕はその頃、ノーム・チョムスキーに夢中になっていたから、彼女の言うことは正直なところ僕の心を打つことは無かったが、それでも彼女の話術には何度か感心することがあった。まあ、そう言う考え方もあるよね、と思わせるだけの説得力はあった。

可愛らしい見た目とは裏腹に、経済について造詣が深い彼女の周りにはいつも男たちが入れかわり立ちかわり現れては、賑やかそうに話をしていた。僕も時々はそんな輪の中に混じっては、彼らの交わす言葉を聞くでもなく、耳を傾けていたものだった。

暫く経ってから、彼女の変化に僕は気づき始めた。まず、身に付けるものが明らかに高価なものに変わっていき、羽振りも良くなった。すごく給料のいいアルバイトを始めたらしかったが、もしかしたら詐欺のようなものだったのかもしれない。それから、やたらと他人を煽り、嘲笑するようになった。自分と経済的観念が合致しない者に対しては徹底的に侮蔑的、攻撃的な物言いをするようになった。何日か前に、いまは米国株がバーゲンセールだから買わない手はない、なんてことを言ってるかと思えば、今日は、今のうちに金を買っておかないとね、などと丸っきり違うことを言ったりもしていた。

彼女の取り巻き連中のなかには、そんな彼女の変化に気付き、辟易として離れていくものも多かったが、それでも彼女には特別なカリスマのようなものがあり、彼女に惹きつけられる者も一定数は存在した。

彼女が変わってしまったあと、僕は彼女とその取り巻きの輪の中に加わることを避けるようになったから、彼女に一体何が起こってしまったのか、詳しくはわからない。できるだけ顔を合わせたくは無かったが、ゼミが同じということもあり、好むと好まざるとに関わらず、一定の間隔で彼女とは顔を合わせる機会があった。

一度だけ、彼女と研究室で二人っきりになったことがある。その時の彼女は、僕が知っている彼女とは全く違っていた。目はうつろで、焦点は合わず、目の前にいるにも関わらず、ちよ子の存在感というものを僕は全く感じられなかった。かつて僕を居心地悪くさせた、その大きな瞳は、もはや何も見据えてはいなかった。僕は、自分自身が透明になったような気がした。

息が詰まるような沈黙の後で、彼女はその虚ろな目で僕を(あるいは僕の後方50㎝に位置するホワイトボードを)見ながらこう言った。「黎くん、わたしとセックスしたいんでしょう?」
唐突な質問に僕が呆気にとられていると、構わずに彼女はこう続けた。「あたしはね、お金にならないセックスはしないの。あなたなんか、見るからにお金無いじゃない?あなたとセックスしたって資産なんて増えないんだから、その間に副業でもしてたほうがよっぽど良いわ。むしろ、ホテル代も交通費も時間も消失するから、実質マイナスよね

一体彼女は何を言っているのだろう。彼女のその虚ろな声が、僕の頭を酷く揺さぶった。彼女の言っていることは、資本主義の原理そのものだった。その時の彼女は、人間というよりも、むしろイデオロギーそのものだった。
彼女は、彼女を彼女たらしめていた何かを失ってしまっていた。それは、帝国の終わりのように寒々しい光景だった。

彼女が言い放った言葉の余韻が未だ研究室に漂っているのを感じながら、僕は彼女をひとり残して研究室から立ち去った。その後、僕は2度と彼女の顔を見ることはなかった。噂では大学を辞め、どこかの小さな村で、神託のようなものを村人に伝え続けていると言う話だったが、確かなことはわからなかった。

多分、ちよ子を変えてしまったのは、誰でもない、ちよ子自身だったのだと思う。

 

にほんブログ村 株ブログ 米国株へ